2009年01月05日

仮想と現実を重ね合わせる「Augmented Reality」 2009キーワード



 2009年の幕開けとともに、IT業界では新しいテクノロジーやビジネス手法をいち早く取り込もうすると激しい競争がまた始まった。今年はどのようなキーワードが注目されるだろうか。1回目は「Augmented Reality(拡張現実、AR)」を取り上げる。


 2007年にNHKで放送された「電脳コイル」というアニメをご存じだろうか。「電脳メガネ」という眼鏡をかけると、レンズの内側のディスプレーに現実の風景と重ね合わせるように、様々な情報が表示される。この眼鏡をかけた小学生たちが、様々な騒動を巻き起こしていく物語だ。

 電脳コイルは言うまでなくフィクションである。原作者の磯光雄氏は「懐かしいような風景とコンピューター技術を駆使した最先端という相反するものを一緒に描きたかった。未来予想というよりエンターテインメントとして面白いものを作りたかった」と話す。ところが、この電脳コイルのような世界を実現しようという技術開発が盛り上がってきている。

 現実の世界にあるものに似せてコンピューターの中に同様の映像を描き出すのがバーチャルリアリティー(仮想現実、Virtual Reality、VR)で、その技術研究の歴史はすでに30年以上もある。その技術の流れのなかに、バーチャルの情報と現実世界の情報を重ね合わせる「Augmented Reality(拡張現実、AR)」が登場した。これまであまり大きな話題になっていなかったが、技術研究はこの10年ほど地道に進められていた。









■ARの定義と具体例

 ARは新しい概念であり、確立されている定義はない。分かりやすい例としてよく使われるのが、先の電脳メガネや人気漫画「ドラゴンボール」に登場する「スカウター」だが、空想の世界にとどまらず実用化や応用の試みが進んでいる。



 オリンパスは08年2月にヘッドマウントディスプレー「モバイルEye-Trek」の試作機を発表した。メガネの脇から伸びたバーに埋め込まれた3.2ミリ×2.4ミリの超小型液晶ディスプレーに映像を表示する。普通に目でとらえる視界とディスプレーに表示する映像を一体で見ることができるといい、12年の実用化を目指している。

 ARの実装方法はメガネだけに限らない。携帯電話のディスプレーやプロジェクターを使った技術も開発されている。

 ソフトバンクモバイルが2006年に発売した端末「904SH」(シャープ製)には「星空をさがそ」(アストロアーツ)という星座を表示するアプリが標準搭載されていた。携帯電話の6軸センサー、GPS機能、時計と連動しており、携帯電話を空にかざすと、その方向にある星座を画面上に表示する。現実世界に重ね合わせるように情報を表示するという意味で、ARを民生向けのアプリケーションで実現した例だ。



 プロジェクターを使った方法では、慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科の稲見昌彦教授が「光学迷彩」というARの研究を行っている。再帰性素材という特殊な反射性能を持つ素材で衣服を作り、その上にプロジェクターで映像を重ねる。これにより、あたかも透明のマントを羽織ったかように体が透けて見えるようになる。




■ARを構成する技術

 ARを実現する要素技術は、大きく3つに分けられる。現実空間の位置を特定するためのセンシング技術、仮想の情報を生成し実際の風景と合成する技術、重ね合わせた情報を表示するディスプレー技術だ。

 このうち、センシング技術が最も重要で難易度が高いとされる。現実世界のどこにどんなものがあるかをリアルタイムで把握することなく、仮想の情報を重ね合わせることはできない。カメラで撮った画像を解析したり、物体にICタグを貼り付けてリーダーで読み取ったりする方法などがある。

 ICタグはセンシングの精度が高いのが利点だ。日立製作所の「ミューチップ」など超小型のチップもあり、衣服に縫いこんでおくことも可能なレベルになっている。とはいっても、いたるところにICタグを組み込むのは、コストもかかり簡単ではない。

 一方、カメラで撮影した映像から位置を割り出す方法は、デバイスが普及しているという意味では有望だ。今では、ほとんどの携帯電話にカメラが搭載されている。ただし、カメラで撮影した画像の解析は難度が高い。撮影した画像は2次元でしかなく、3次元での位置が特定しにくいからだ。精度面でICタグには劣ってしまう。





 カメラを使った位置特定の精度を上げる方法はいくつか考えられている。一つは、特殊なプリントパターンを用意して、その部分の傾きなどから位置を計算するやり方だ。「電脳フィギュア アリス」(芸者東京エンターテインメント)という市販ソフトは、この技術でARを分かりやすく実現している。ウェブカメラの前で特殊パターンが付いた小さなパネルを動かすと、パソコン画面上のキャラクターをなでたり反応を引き出したりすることができる。

 別の方法では、07年に英オックスフォード大学で開発された「PTAM」と呼ばれる認識技術が注目されている。カメラの位置を動かしながら撮影し、3点測量の要領でリアルタイムに3次元の位置情報を構築する。撮影した画像から物体を認識するための特徴点を高精度に抽出できるという。PTAMを実現するソフトウエアのソースコードも公開されており、外部の研究者も同技術を取り入れた研究に取り組み始めている。




■身近になるAR

 ARの要素技術は先端的な大学の研究室などで研究されてきたものだが、特別な設備や技術がなくてもARを実装できるツールが提供され、一般の人にも手が届くようになっている。

 99年に奈良先端科学技術大学院大学の加藤博一教授が開発し、その後ワシントン大学なども参加して開発が続いている「ARToolkit」というツールがある。これは非商用であれば無償で使うことができ、通常の性能のパソコンとカメラがあればARを実現できる。

 具体的には、(1)現実世界の風景をカメラから読み込む(2)現実世界の風景の位置情報を解析する(3)重ね合わせるための仮想の映像を生成する(4)現実世界と仮想の映像を合成する、というARの実現に必要な4つの機能を一通り備えている。

 VRやARの研究を手がけている東京大学大学院情報理工学系研究科の西村邦裕助教は「ARToolkitなどのツールを使えば、情報系の大学生なら2〜3回授業を受けただけで、ある程度のサンプルを作れるようになる」と話す。

 実際、「YouTube」や「ニコニコ動画」などの動画共有サイトで「ARToolkit」という言葉で検索すると、ARToolkitで作成した数多くの映像を見つけることができる。ARの技術を使った画像検索など新しいユーザーインターフェースの概念を提案しているものもあり、興味深い。


■何の役に立つのか

 ARの技術開発は研究室から外に出ようとしているが、どのような応用分野が考えられるのだろうか。

 1つは、工場などで作業のガイダンスに使うことが想定されている。AR用のメガネをかけて作業をすると、メガネの内側のディスプレーに次にすべき作業の手順が表示される。これにより未熟練工でも簡単に作業ができるようになる。

 医療分野での活用も期待されている。外科出術の現場ではすでに、カメラで撮影した映像をディスプレーで見ながら手術するという方法が導入されている。しかし、実際に手元を見ずに手術をするため慣れが必要になる。

 慶応大の稲見研究室では、この医療現場に導入できるARの研究にも取り組んでいる。人の血管や臓器の様子をメスの先に付けたカメラで取り込み、そこにMRIで撮影しておいた画像を重ね合わせる。さらにメスの反対側の先にモーター駆動のアームを付けて制御することで、余分な箇所に傷を付けず正確に手術できるようになるという。


<動画>AR技術を応用したメスのデモンストレーション。メスの先にカメラを付け、アームで制御しながらゆで卵を切ると白身の部分だけを切り取ることができる ※稲見昌彦教授提供


 このほか、ARによる光学迷彩の技術を自動車に導入して、車の運転者から死角になるドアの向こうを見通すといったことも研究されている。

 結局のところ、これらの用途はARによりユーザーインターフェースを大幅に改善することを目的としている。稲見教授はARを「コンピューターを透明にする技術」と話す。現状でも多くのことがコンピューターで制御できるようになっているが、それが現実世界の中に“透明”になって溶け込んでいないために、使いにくいのだ。

 「例えば、昔から不便なまま変わらないのが電灯。実際に電灯が点いている場所とスイッチの場所が違うので操作しずらい。電灯の方向にパソコンのディスプレーをかざすと、画面上にも電灯が表示され、それをタッチしてオンオフしたりできれば、ユーザーインターフェースとしてわかりやすい」(稲見教授)。


■今後の課題と動向





 10年かけて進歩してきたARだが、当面の課題は、携帯電話のような処理能力の低い端末でも実装できる正確なセンシング技術を確立することだろう。09年の動きで注目されるのは日本でもグーグル「アンドロイド」搭載端末が発売になる見通しであることだ。アンドロイドはソースコードが公開されている携帯OSであり、アプリケーションを自由に開発しやすい。アンドロイド端末向けのARアプリケーション開発が進むことが期待されている。

 ガートナーが08年8月に発表した「先進テクノロジのハイプ・サイクル:2008年」によると、ARはまだ「テクノロジの黎明期」に位置しており、世の中の主流になるのは10年以上先という。一方、慶応大の稲見教授は「もう5年ぐらいでARを手がけるベンチャー企業がたくさん登場してくる」と予想している。

 ARが我々の生活の中の至るところに“透明”に入り込んでくる時期は不透明だ。しかし、「VRやARの研究者はみんな電脳コイルを見ている」(東大の西村助教)というように、電脳コイルがARの研究に与えた影響は大きいようだ。刺激を受けてARに取り組む研究者が増えてくれば、それほど遠くない時期にアニメが現実のものになる可能性もあるだろう。(2009.1.6/日本経済新聞)


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