2009年01月06日
ユーザー行動を深く理解する「エスノグラフィー」 2009キーワード
「エスノグラフィー」(ethnography、民族誌学)は、にわかに注目を浴びるようになってきたマーケティング分野のキーワードである。もともとは、各文化の行動様式を解析し異民族を理解するために人類学から分化した学問だ。これがビジネス向けに発展してユーザー調査手法となった。
■ユーザーと暮らす・過ごす
簡単に言うとユーザーの行動を深く理解することだが、様々な方法がある。ユーザーへ質問をすることはもちろん、ユーザーの行動を観察することがある。観察を突き詰めると、さらにはユーザーの普段の環境で共に過ごす・暮らすことになる。つまり、企業側の論理ではなく、できるだけユーザー側に歩み寄ってユーザーを徹底的に観察し理解することが基本となる。
観察はノートやスケッチによる記録、写真やビデオ撮影など。長期の例では、2年にわたり3カ月ごとの計8回、同じ家庭を訪問し、話を聞くだけでなく長時間のビデオ撮影をすることもある。企業側の観察者が記録を取るだけでなく、ユーザーが記録した日記やビデオなども用いられる。期間や予算、観察要員などの制約があるため、学問としてのエスノグラフィーに比べると短期間で効率的な調査設計がされることが多い。
例えば情報端末でも、デスクトップパソコンよりも使う場所が多様なモバイル端末の方が、ユーザーの利用方法を特定するのが難しく、エスノグラフィーが効果的だ。移動中やレストラン、ベッドの中などユーザーが置かれた状況があり、さらに通信回線の利用なども複合するため、ユーザーニーズの理解が容易でない。実際に観察することによって初めて得られる知見は多い。
これまでのマーケティング調査は、歴史的に定量的な統計処理調査が主であった。情報技術の力を借りて発展し、大量の情報から必要なデータを取り出すデータマイニングと呼ばれる分析も台頭した。また、インターネット・リサーチの登場によりアンケート型調査にかかる時間の劇的な短縮が可能になり、当初は統計的に問題があるといった批判もあったが、広く用いられるようになってきた。
定性的調査はこれまで定量調査の陰に隠れてきた。1951年コロンビア大学の社会学者ロバート・K・マートンの著書「The Focused Interview」で「フォーカス・グループ(グループインタビューのこと)」の手法が紹介され、70年代には心理学を応用した研究もされ始めたが、企業活動への十分な適用には至っていない。フォーカス・グループについては、現象学的な理解に欠けた実践が多いとの批判もある。つまり、質問者である企業の都合にとらわれがちであり、この手法の限界を示している。
企業でのエスノグラフィー適用の先駆の一つは、79年に米ゼロックスのパロアルト研究所に入った文化人類学者のルーシー・サッチマン(現ランカスター大学教授)の取り組みである。ユーザーがコピー機を実際にどう使っているかを撮影し、それが製品開発に影響を及ぼした。80年代には他社も人類学者や心理学者を製品開発に取り入れようとし始めた。
■欧米では取り組み進む
エスノグラフィーは欧米においてはこの数年は過熱気味ともいわれるほど注目された。例えば、米食品メーカー大手のゼネラル・ミルズでは、10年前は8割の消費者調査がフォーカス・グループだったが、いまはエスノグラフィーによる個別ユーザーの観察が半分を占めるという。
米日用品大手プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)のA・G・ラフリーCEOは「我々は、消費者の家に住み、共に買い物をし、生活の一部となることに、以前と比べはるかに多くの時間を費やしている。これによりはるかに豊かな洞察が得られる」と07年の米メディアでのインタビューで語っている。P&Gは00年から個別ユーザーの調査予算を5倍にしているという。
この潮流は食品やトイレタリーに限らず、IT分野にも押し寄せている。05年11月に米マイクロソフトとインテルがエスノグラフィーのイベント「Ethnographic Praxis in Industry Conference (EPIC 2005、http://www.epic2005.com/)」を開催したことは、注目の高まりを表している。
マイクロソフトのウィンドウズ、モバイル、インターネットなどの各事業部には、家庭や職場のユーザーを観察する要員が300人いる。ウィンドウズ・ビスタの開発では、米国40世帯、日本、ドイツ、フィンランド、インド、イスラエル、メキシコ各国2世帯を観察した。これにより1000件ほどの問題が見つかったが、その8割はマイクロソフトのテストチームでは見つからなかったものだという。
インテルの直近の例は、「YouTube」に投稿されている動画「Research background of the new version of classmate PC」(http://jp.youtube.com/watch?v=XuN7Mc0S1TU 同社エスノグラファーの解説)で見ることができる。インテルの新しい「クラスメートPC」は教室で子供たちがどう使うのかを観察し調査したことがベースとなって開発された。
インテルが上海で発表した新興国教育市場向けパソコン「クラスメートPC」=2008年4月3日
インテルのライラ・イブラヒム氏は「我々のエスノグラフィー調査の成果は、生徒がタブレットとタッチスクリーン技術に良い反応を示したことに表れている。新しいデザインの創造性、インタラクティブ性、ユーザーフレンドリーさは、子供たちの学習を助けるだろう」と語っている。なお、インテルには40人のエスノグラフィー専門家がいるそうだ。
携帯電話機シェアトップのノキアは、商品開発プロセスにエスノグラフィーを組み入れ、成長市場である発展途上国にエスノグラフィー調査要員を送り込んでいる。例えばアフリカならば一台を家族や村で共用する地域もある。インドネシアとウガンダを比較してみるなど、もともとのエスノグラフィーの意味に近いやり方もとっている。
■「モノ」を作るのではない
こうしたエスノグラフィーの手法が登場したのは企業や市場、製品が成熟化・複雑化してきたことに伴っている。特に各国にまたがる市場や多様なユーザーセグメントを対象とする場合、利用のされ方の想定が難しい。また、単に性能の良い「モノ」を作るだけではモノが売れなくなっており、いかに価値の高い「ユーザー・エクスペリエンス」を作ることができるかへと競争の軸がシフトしつつあるのだ。
欧米企業を中心として進んでいるエスノグラフィーだが、日本国内での例はまだ珍しい。しかし、ユーザーを深く洞察した欧米企業と世界市場で競争するには、日本企業も避けて通れないだろう。アップルのiPhoneのユーザーインターフェースで驚いているだけでは済まないのだ。
エスノグラフィーは定量調査に比べて、サンプル数が少ないから意味がないといった揶揄も聞く。しかし、統計的に意味がある浅い理解より、少数でも深い理解が求められて来ているのは世界の動向を見ても間違いない。エスノグラフィーは、消費財、金融、自動車、電子機器などで効果を上げており、適用できる業種は幅広い。
昨年から徐々に日本でもエスノグラフィーがセミナーやイベント、メディアで取り上げられるようになってきた。エスノグラフィーのイベント「EPIC 2008(http://www.epic2008.com/)」は2008年に博報堂がスポンサーに加わった。なお、博報堂はデザイン会社の米IDEOと提携してエスノグラフィーを取り入れた商品開発コンサルティングに着手している。
また、富士通と花王が1月27日開催の「ソフトウェアジャパン」(http://www.ipsj.or.jp/10jigyo/forum/software-j2009/it-f-pro-userstudy.html)で事例を紹介する予定になっている。他の日本企業では、大阪ガス(情報通信部)、大日本印刷(情報配信サービスMagitti)、コニカミノルタテクノロジーセンターなどがエスノグラフィーに取り組んでいるという。ちなみに、富士通や大日本印刷は、先駆として挙げたゼロックスのパロアルト研究所をお手本にしている。
不況下で消費者へのアピールが難しくなるなか、見過ごしていたユーザーの実際の願望や不満をとらえるアプローチとして、エスノグラフィーは日本でも今年いっそう注目されるだろう。(2009.1.6/日本経済新聞)


